第2章
水原遥は黙って聞いていた。
佐藤隆一も口を開くまで。「水原遥、お前は本当に分別がないな」
彼女は顔を上げて彼を見た。
明らかに水原羽美が悪いのに、みんな彼女を責めている。なぜ？
ただ彼女が愛される側ではないからというだけで。
水原羽美は佐藤隆一の袖を引っ張った。「そんなこと言わないで、隆一兄ちゃん。お姉ちゃんだって、わざとじゃないんだから…」
彼女の言葉を聞いて、水原遥はついに皮肉を言わずにはいられなかった。「この状況、あなたが一番見たかったんじゃない？」
「私は…」水原羽美はまだつらそうな顔をしている。
水原奥さんは彼女の言葉を遮り、ため息をついた。「もういいわよ、遥ちゃん。今日の結婚式は中止になったんだから、もう無効よ。これからは羽美ちゃんが嫁ぐことにしましょう」
前から言っていたことの目的は、結局この一言だったのね。
水原遥は唇の端に冷笑を浮かべ、うなずいた。「いいわよ。あなたが佐藤家の人に説明して、佐藤の爺さんに水原羽美が佐藤隆一のベッドに入り込んだって伝えて。あの老人が水原羽美を佐藤家に入れることに同意するなら、私も同意するわ」
この言葉に、他の数人の顔色が変わった。
爺さんが水原遥を気に入っていて、孫の嫁は彼女以外ありえないと言っていたことは誰もが知っていた。
水原羽美の涙がぼろぼろと落ち、気を失いそうなほど泣いているのを見て、佐藤隆一は眉をひそめた。「爺さんのことは俺が話す。爺さんは羽美ちゃんを受け入れるよ」
「そう？お爺さんが浮気相手を最も嫌うって、違うの？」
水原遥のそっけない一言で、佐藤隆一の顔色が再び青ざめた。
彼らは五年間一緒にいて、佐藤家の全員が彼女の存在を知っていた。
結婚を間近に控えていたのに、突然花嫁が変わるなんて、佐藤家に説明がつかない。ましてやお爺さんは厳しい人。
しかしそれはもう水原遥の関心事ではなかった。
彼が水原羽美と関係を持った瞬間から、この男は彼女にとってもう終わりだった！
バッグを手に取り、彼女はもう彼らと時間を無駄にしなかった。「支払いに行くわ」
水原遥は階段を降りていった。
人前では常に強さを見せていたが、一人になったときだけ、少しだけ感情を露わにすることを許していた。
あれは彼女が深く愛した男だった。彼女の結婚式が台無しになったのに、どうして辛くないわけがあるだろう？
約一年前、佐藤隆一は秘書が必要だと彼女に告げた。そして水原羽美は大学で国際貿易を学んだばかりだった。
そして当然のように、水原羽美は彼の会社に入り、彼の側に立った。
おそらくその時から始まったのだろう。
彼らは常に一緒にいて、水原遥はあの愚かな信頼のせいで、一度も確認しなかった。
彼女の信頼が、彼の浮気の最高の条件になっていた。思い返せば皮肉なことだ。
水原遥はぼんやりと階下に着いた。涙はすでに乾き、ただ胸が痛くて息ができなかった。
幼い頃から人の軒を借りる身だった。叔父は彼女をよく世話し、叔母も表面上は悪くなかった。
でも彼女自身だけが、あの用心深さを理解していた。一歩間違えれば嫌われるのではないかという恐れ。
彼女は誰に対しても礼儀正しく、本当の感情を包み隠していた。
佐藤隆一が自ら彼女に近づき、気にかけてくれた。
彼は少しずつ彼女の心を開いていった。
彼が彼女に、本当の自分でいることを教えてくれた。彼女自身が輝いていて、誰からも好かれる価値があると。
あの頃の彼は、まるで天から降り注ぐ一筋の光のようで、彼女の前半生の暗い20年を照らしてくれた。
水原遥は迷うことなく彼を愛した。
この5年間、彼女は彼との家庭を早くから夢見ていた。かわいい赤ちゃんを産み、家族で幸せに暮らすことを。
でも今、夢は砕け、現実が彼女に平手打ちを食らわせた。
水原遥は無表情で支払い窓口に向かった。
彼女はウェディングドレス姿で、道中たくさんの奇妙な視線を集めたが、もはや気にする余裕もなかった。
彼女がある男性の胸に頭からぶつかるまで、我に返らなかった。
水原遥は慌てて顔を上げ、目の前の人を見た。「すみません！」
男性は縁なしの眼鏡をかけ、普通の白衣を着ていたが、彼の高い身長と優れたプロポーションは隠せなかった。
彼の顔立ちは深く、特に目の下のほくろが目を引いた。
彼女を上から下まで見て、彼は冷たい口調で言った。「そんなに酷く泣いて、振られたのか？」
水原遥は頬を赤らめ、少し困惑した。
彼女は急いで立ち去ろうとしたが、男性は彼女を止めた。真剣な口調でありながら、どこか誘うような声で言った。「浮気への復讐に一番いい方法を知っているか？」
水原遥は少し驚いた。
男性はおそらくこの病院の医師だろうが、彼女は確かに彼と面識がなかった。
彼は一目で彼女が浮気されたことを見抜いたが、彼女は彼の意図が理解できなかったし、見知らぬ人と話す余裕もなかった。
水原遥は直接彼を押しのけた。「すみません、冗談を言いたいなら他の人を探してください」
彼女は急いで立ち去り、男性の深い視線が彼女の後ろ姿を見つめていることに気づかなかった。
急いで支払いを済ませ病室に戻ると、佐藤隆一は水原羽美をなだめ、手を伸ばして彼女の涙を拭いていた。
水原遥はそれを一瞬見ただけで、視線を脇の医師に向けた。
手術の準備は整い、水原当主はまもなく手術室に運ばれるところだった。
彼女は無意識に医師に尋ねた。「先生、この手術に命の危険はありませんか？」
白衣を着た男性が振り向くと、深い瞳と目の下のほくろが見えた。
なんと、彼女が先ほど階下でぶつかった医師だった！
彼の低く磁性のある声が響いた。「どんな手術にもリスクはあるが、私の手ならリスクを最小限に抑えられる」
とても傲慢な言葉なのに、なぜか説得力があった。
水原遥が驚いている間に、彼は突然一歩近づき、低い声で言った。「それに、手術時間はそれほど長くない。先ほど階下で私が尋ねた質問について、よく考えておくといい」
言い終えると、彼は水原遥の返事を待たずに、手術室へと向かった。
すぐに赤いライトが点灯し、水原遥は廊下のベンチに座り、彼の言葉を思い出した。
浮気への復讐の最良の方法とは何か…
きっと浮気で仕返しすることだろう。
水原遥は自分が混乱して考えすぎているのかもしれないと思った。
彼らは初対面なのに、なぜ彼はそんなことを言ったのだろう？
彼は約束通り、1時間もしないうちに手術を終えた。
手術は順調だったが、水原当主はまだ目覚めておらず、看護師によって病室に運ばれ観察されていた。
水原遥が病室に立っていると、背後から誰かに見られている気がして振り向くと、ドアにいる医師が見えた。
「患者の家族の方、ちょっと出てきてください」
水原奥さんは「患者の家族」と聞いて反射的に出ようとした。
しかし男性の冷たい声が続いた。「先ほど支払いに行った方」
水原奥さんは足を引っ込めた。「遥ちゃん、支払いで何か問題があったの？」
水原遥は答えずに外に向かった。
「どうしたんですか？」
彼女は顔を上げたが、その背の高さは男性の胸元にしか届かなかった。
男性は冷たく答えず、彼女を病院の屋上テラスの方向へ連れて行った。
そこには、佐藤隆一と水原羽美が一緒に立っていた。
彼らは何かを話していたが、水原羽美の視線が水原遥と合うまで続いた。
佐藤隆一は背を向けていたので、何も見えなかった。
すぐに水原羽美の目に挑発的な光が宿った。
彼女は突然微笑み、柔らかく佐藤隆一の肩に寄りかかり、水原遥をじっと見つめた。まるで「見て、あなたの男は私のものよ」と言っているかのように。
彼女はわざとやっていた。先ほどのつらそうな姿とは全く別人のようだった！
医師は彼女の横に立ち、淡々と言った。「どうだ？私の質問の答えは考えついたか」
水原遥は突然彼を見上げた。
この瞬間、彼女は自分が考えすぎていなかったことを確信した。
彼の次の言葉が彼女の推測を証明した。「私と結婚しろ。そうすればあの二人に恥をかかせることができる。今すぐ彼女に言ってやれ、ゴミを拾うのが好きなら、拾わせてやれと」
